小説「幻想空間」

 

 プロローグ

 

 

 耳を澄ます。

 時折、空き缶の転がる音が聞こえる。

 それ以外物音ひとつしない。

 古い型の車がロックもせずに放置されている。

 錆だらけの三輪車が砂利道の隅に横倒しになっている。

 板塀の上に小学生の上履きがきちんと揃えて並べられてある。

 何処かで風鈴が揺れている。

 すべてが静寂に満ちた、昼下りの東京都田無市住宅街。

 

 細い道の突き当たり、古めかしい一軒家が見える。

 物干し竿にくすんだ色の洗濯バサミ。

 ヒビの入った壷に無造作に放り込まれた色のない花。

 伸び放題の雑草。

 かすかに聞こえる咳払い。

 

 玄関を、そう、入るとすぐ右手に木目の物入れがある。

 それから廊下。

 その奥に畳の部屋。

 そして…。

 

 赤いワンピース。そこにあるは赤いワンピース。

 身を屈めて縫い物に取り掛かる、俯き加減の初老の女。

 色あせた唇から小さくもれる溜息。

 時折ぴったりと閉じられるふたつの瞳。

 血管の目立つ手に操られながら完成に近付いていくワンピース。

 鮮やかな、とても鮮やかな赤いワンピース。

 

 不意に、入口に浮かぶ人影。

 ゆらりゆらりと風に揺らぎかけている。

 入って来たいような入りたくないような、じっと立ちすくむ細身のシルエット。

 すうっ。室内の空気が動く。

 すうっ。外気が入って来る。

 すうっ。さらさらさら…はらり。

 シルエットは少女に姿を変え、女の背後にそっと佇んでいる。

 きしむ畳の音。女が振り返る。

「…佳代ちゃん…」

 少女は無言のまま視線を宙に泳がせている。

 女がゆっくりと頬を緩ませ、嬉しそうに笑う。

「…お帰り」

 よく似ている。眼差しが、視線の泳がせ方が、俯いた横顔が。

「遅かったのね、とっても遅かったのね。今日までどうしていたの?」

 何度かしばたかれる少女の、長い長いまつ毛。

 何度もしばたかれる母親の、同じく長い長いまつ毛。

「お母さん待っていたのよ。今日帰って来る、今日こそ帰って来るって思って、ずっと待っていたのよ」

 虚ろな瞳の少女。

 濁った瞳の母親。

 少女は無表情なまま、まるで小さな子どものように母親にもたれかかる。

 体を動かした際にポケットからライターが滑り落ちる。

 畳の上に転がったライター。

 少し変わった形の、黒いスリムなライター。

 

 夜が更ける頃、娘は子猫の様に母親にぴったりと寄り添い眠る。

 灯りを消した室内に横たわる黒い幸福感。

 箪笥の上に置かれた写真立て。

 夫婦と赤ん坊が写る古い写真。

 じっと見つめる女。

「あなた、佳代ちゃんが帰って来てくれたのよ。私たちの子どもが帰って来たのよ」

 小さく微笑んだ女は、いつしか深い眠りにおちていく。

 その目尻を一筋の涙がつつうっと流れ、やがて枕に吸い込まれていった。

 

 ざわざわと木々が揺れる。

 強い風に追われる汚れた雲。

 カラカラと地を這う乾ききった落ち葉の群れ。

 あたり一面、焼けただれた野原がそこにある。

 女は裸足のまま立ちすくんでいる自分に気付く。

 ぶるぶるっ。思わず身震いする。

 ぶるぶるっ。冷たい風に背筋を撫でられて。

    焼け野原の遥か彼方、幼い少女が懸命に走って来るのが見える。

 少女の背後、木切れや棒を振り回しながら追って来る大勢の子どもたち。

 ウォオオオーッ。

 歓声に似た恐ろしい轟きがこだまする。

 ウォオオオオオオオーッ。

 泣きながら逃げているのは、幼い日の佳代子だ。

 ぼんやりしていた女がハッと息を飲む。

 容赦するものかとばかりに走り来る子どもたち。

 そうはさせるものかとばかりに走り出す女。

 反狂乱の娘を抱き上げる。

 娘は金切り声を上げ小さな両腕で女にしがみつく。

 振り返る。

 そこには悪魔と化した恐ろしい形相の

 子どもたちが、

 子どもたちが、

 子どもたちが。

 女は泣き叫ぶ娘を抱えたまま走り出す。

 赤黒くただれた世界を走り出す。

 恐い。恐い。恐い。

 誰か。誰か。誰か。

 恐怖にもつれた足は鉛のように重い。

 もう背後に追いつきかけている悪魔たちの荒い息づかい。

「あなた助けてッ」

 女が叫ぶ。娘を抱えた両腕は、今にもちぎれんばかりに熱い。

「佳代ちゃんがまたいじめられているのよ、あなた早く来てっ、助けてえええええええっ」

 女は自らの声で悪夢から醒める。

全身に冷たい汗がはりつき、ひどい悪寒が走る。

 ああもう何度同じ夢を見ただろう。よろよろと起き上がり灯かりをつける。

 そして…。

「佳代ちゃん、何処…」

 隣に寝ていた筈の娘が、忽然と消えている。

 女の両眼がカッと見開かれる。

「佳代ちゃんっ」

 裸足のまま外へ飛び出す。

 もう東の空は白み始めている。

 血走った眼のまま呆然と立ちすくむ、青ざめた母。

 細い道には灰色の静かな風が吹き、愛しい者の足跡すらかき消してしまっている。

「嘘でしょう…嘘でしょう…」

 ガックリと冷たい砂利道の上に座り込む母。

「佳代ちゃん、今度はあと何年待てばいいの」

 絶望から泣き出した女は小さくなってうずくまってしまう。

「佳代ちゃあん、佳代ちゃああん」

 その声は物悲しく長く尾を引き、いつまでもやむ事なく響き渡り続ける。

「佳代ちゃん、戻ってきてよう」

 

 静寂なる住宅街。

 そこに潜む狂気。

 木々が揺れ、水が揺れ、空が揺れ、大地が揺れ、そして人の心まで、

 すべてを静かに揺さぶり続ける。

 明け方の東京都田無市にて…。

 

     第一章

 

 その朝、また時間ぎりぎりで高田馬場駅に到着した。九時までに会社に入らなければならないというのに、時計の針は既に八時五十五分を指している。

 私は走り出しながら、あともう五分早くアパートを出なかった事を深々と後悔する。

 途中の銀行、郵便局、喫茶店弁当屋、宝くじ売り場を視界に感じながら息切れを感じ速度をゆるめる。時計を見る余裕もない。

 また走り出しながら、自分は何故こんなにも急いでいるのだろうと考えてみる。別に会社の為だの時給の為だの、そんな事ではない。断じてない。ただ単に遅れる事で目立ちたくないだけなのだ。

 呼吸が困難になり、思わず眉間に立て皺を作る。今私はさぞかしみにくい顔をしている事だろう。それでも走る。そして速度を落とし歩き出す。また走り出すがまた歩き出す。走る。歩く。それを何度も繰り返しながら、自分は活動的な行為が得意ではない事をうっすらと認識する。私は短距離ランナーなのだ。

 疲れた。そうだ、今度は大股で走るように歩いてみよう。これはいい。

 一、ニ、一、ニ、心の中で掛声を掛けながらアスファルトの上をたったひとりで競歩する。どうか誰も私を見ないで欲しい。きっと私はビデオの早送りを演じているかのようだろう。しかしこれもなかなか疲れる種目だ。

 駄目だ。大股で勢いよく歩いているだけでは物足りない。焦りの極致に陥ってしまったではないか。仕方ない。再び全力で走り出すとしよう(何て気の小さい私)。

 

 角を曲がるとT信用金庫が見えた。アルバイト先はその隣のビルにある。 重いドアを押して古い階段を駆け上がる。自分が何も考えていない事をぼんやりと感じながら、ただ階段を駆け上がる事だけに必死になる。短い廊下を小走りに走る。足音を立てないように小走りに走る。オフィスのドアを静かに開け、するりと中に滑り込む。

 いつも他人に気付かれないように静かにドアを開閉し、出社退社を繰り返す。私はこれからもこうしてこのドアを出入りするのだろう。

 壁に掛けられた小さな箱から、素早く自分のタイムカードを選び出し機械に差し込む。カードはタイムレコーダーに飲み込まれ、時間を打ち込まれた後ずるりと吐き出されてくる。

『九・〇〇』時刻は九時きっかりだった。

「ああ、杉本さん、おはよう」

 声を掛けてくれたのは、マネージャーだ。名前を覚えていてくれた事に小さな驚きを覚える。そう、私はいつも名前や顔を覚えられる前に首になるのだ。

 ほんの先々週、入ったアルバイト先の朝礼で挨拶した事を思い出す。

「杉本利恵子です。よろしくお願いします」

 そこは一日で首を切られた。

「あなたの持っている雰囲気と、うちの雰囲気が合わない」

そう言われた。はて?ここはどのくらいもつのか?さあ、業務にかかろう。

 

 この狭いオフィスの中には、三十人程のアルバイターがひしめいている。それぞれがノルマをこなそうと、パソコンのキーボードを躍起になって叩く。いらついた指先で、躍起になって叩き続けている。

 私はゆっくりとマウスを取り、ゆっくりとキーボードを撫でるように押す。そしてゆっくりと資料に手を伸ばし、ゆっくりとペンを取る。すべての動作をゆっくりとせずにいられない。確固とした理由はないが、ただそうすればするだけ長い時間を持て余さずに済むのではないかなどという、それこそ馬鹿げた発想からである。

 タタタタタタタンッ。音にすればこんな感じではあるまいか。リストを見て、一瞬にして相手先のデータを指先にインプットし、キーをビシビシ叩く。次の瞬間にはもうそのデータなど忘れているのに。

 タタタタタタタンッ。

 タタタタタタタンッ。

 その猛々しい空気の中、私ひとりが落ち着き払って動作している。

 壁にかけられたカレンダーの少年が、先程から私に微笑みかけている。一緒に遊んで、とでも言いたげな笑顔をこちらに向けている。

 …そういえば曜日が変わるのは早いのに、月日が流れるのは何故こんなにも遅いのだろう。

 一年前の今日の私。

 ニ年前の今日の私。

 三年前の今日の私。

 そして五年前、八年前、あるいは十年前、それとも十五年前(その頃は小学校低学年だが)の今日の私が、突然ここにズラリと揃って整列してみたら、どんなものだろうと想像してみる。

 私は一体何年前の自分に最初に言葉をかけるだろうか。そして彼女らは、未来の自分自身の姿であるこの私を、どのような想いをもって見つめるのだろうか。

 遅い。年月が流れ去るのはあまりにも遅すぎる。もっと遠くへ、すべてが失われるまでに遠くへいけぬものなのか。

 不意に悲しい気持ちになり目を伏せる。このまま見つめていたらきっと涙があふれ出してしまうだろう。そうなる前に、拭いきれぬあの頃を思い出す前に、私はそっとカレンダーから目を背ける。

 瞬き。瞬き。瞬き。

 ああそうだった。瞬きを何度もすればいいのだった。そうすれば瞳にたまった涙は薄くのび、こぼれ落ちる心配はないのだから。

 

 屋上にいると実に気分がいい。ついついのびのびしてしまう。ここは私のかっこうのくつろぎスポットと言えよう。勤務時間中に職務を放り出し、私はひとり鉄柵と戯れる。柵の間から顔を出し下方を眺める。

 ああ、なるほどね。こんな高い位置から見下ろすと、あんな大きな車もミニカーにしか見えない。ここから唾を吐いたら地面に落ちるまでに、一体どのくらいの時間がかかるのだろう。ここから飛び下りたら死ぬまでに、どのくらいの猶予が与えられるのだろう。

 内ポケットから薄いシュガレットケースを取り出し、一本くわえてからカチリとライターを鳴らす。私は使い捨てライターや、シュッとすって火を付けるライターを使わない。今愛用しているのは一年前に購入したものだ。このライターを見付けるまで、随分とあちこちの店を回ったものである。

 私はデパートなどに行くと、ついライターを探して売り場をのぞいてしまう。それはもう習慣になっていると言えよう。あの人が愛用していたものと同じライターがどこかに売っていないかと、ついつい立ち寄ってしまう。人が使っているものも妙に気になる。ましてや、少し変わったデザインの黒いスリムなライターを見かけると、毎回ドキリとする。今使っているのはあちこちの売り場を回り、ようやく近い型を見付け気に入ったものだ。まったく同一の型はとうとう見付からなかった。

 確かに同じライターを見付けてどうなるというものでもない。馬鹿馬鹿しいとも思う。しかし私はたまらないほどに欲しているのだ。あの頃の形見を。

 自己愛を極めると人は狂気に走るのか。水面に映った自分の姿に恋してしまった少年ナルシサスの心情はいかなるものであったろう。あの人はナルシサス少年の生まれ変わりだったのだろうか。そしてこの私は…。

 ポロリと灰が落ちる。ようやく我に返る。ああ、そろそろオフィスに戻ろう。また次を探すのは面倒だ。

 

 私のアパートの部屋には大きなスタンドミラーがある。この部屋に入った瞬間、古ぼけた室内に似合わぬ、仰々しい造りのスタンドミラーに目を奪われる。

 私はミラーの前に立ち、自分の一糸まとわぬ姿をしげしげと眺めている。

 …我ながら痛々しいまでに痩せこけてしまった。昔の面影はもうない。あの頃の無邪気で健康的な私はもう二度と鏡の中に姿を現さないだろう。胸には肋骨が浮き、肩の骨もくっきりと浮き出ている。後ろを向いて確かめるまでもなく背中の肉も薄い筈だ。

 静けさに満ちた室内。色に例えれば真っ白というところか。心の中も同様に真っ白だ。

 鏡を通して私は私とじっと見つめ合う。もうひとりの私はもの憂げに表情をくもらせ、何か言いたげに瞳を揺るがせている。

「どうしたの」

 優しく問いかけてみる。

「なあに、言ってごらんなさい」

 私はもじもじする我が子に話しかける母親の気持ちになり、柔らかな口調でたたみかける。しかしそれでも鏡の中の幼な子は、両眼に涙をいっぱいにため無言のまま私を見つめている。

「いいのよ、分かっているわ」

 私には幼な子の苦しみが痛いほどよく分かっていた。

 

 いつも無表情なあなたが今日は輝いている。

 私が微笑みかけると、あなたも微笑み返してくれる。

 私が穏やかに話しかけると、あなたも穏やかな口調で話してくれる。

 絹のような黒髪が明るく染められ、色鮮やかなルージュがきわどく光る。

 そのドレス、とっても似合っているわ。

 いい薫りがするのね、何というオーデコロンを?

 今日のあなたは別人のように輝いている。

 きっと世界中の誰よりも華やかで美しいわ。

 ねえそれなのに、不意にさびしそうな表情を見せるのは何故なの?

 微笑んだまま落とした涙で何を語らんとしているの?

 待って、何も言わないで。

 いいのよ、何も言わなくても私にだけは分かっているの。

 だってあなたは、私自身なんだから…。

 

 やっぱりここに来てしまった。もう二度と来ないと誓ったのに。何度も何度も誓ったのに…。

 初めてあの人を見たのがこのライブハウスだった。この壁に背をもたれ、じっと立ちすくんでいた。水晶のごとき妖気を漂わせながら。

 ズキリ。

 痛い。

 そう、思い出しただけで。

 店の従業員も常連客も、もう皆顔ぶれが変わってしまった。それ自体はさほどさびしい事ではない。そんな事はどうでもいい。

 今夜もここには大勢の人々があふれているが、あの人の姿だけは見えない。ここにはこんなに人は大勢いるのに、何故あの人だけはいないのだろう。何故あの人にだけは逢えないのだろう。あの人と過ごした日々が取り返しつかぬものであればあるほど、しかしそれでも取り返したいと願っているから、尚のこと愛おしい。

 …逢いたい…。

 はらり。大粒の涙が床に落ちていく。

 私の心の中は、再び真っ白になっていった。

 

 一体どこからこんなに人が沸いて来るのだろう。

 電車は停車するその度に大量の人間を吐き出し、ホームにいた大量の人間を飲みこんでいく。きれいに片付いた筈のホームにはまた人が集まって来る。間もなくやって来るであろう新しい電車に飲み込まれる為に。

 お洒落をした少年たちが笑いさざめく。髪の長い女が傍らの男に寄り添う。帽子をかぶり直す初老の会社員。大事そうに赤ん坊を抱きしめる若い母親。

 ねえ、教えてよ。

 私はホームにいる人々に叫びそうになる。

 この電車に乗って一体どこに行くつもりなの?行き先は決まっているの?どこ行ったって変わりゃしないよ。それが分からないの?だったらいっそのこと、時間を逆に走る汽車を見つけようよ。戻ろうよ。私と一緒に。

 すんでのところで唾液を飲み込むように言葉をぐいっと飲み込む。そして自分もまた、電車に飲み込まれる為にゆっくりと立ち上がる。

 私の胃は、吐き出そうとして無理矢理飲み込んだ可哀想な言葉たちの為に、荒れて痛みをともないながら膨張し続け、今にも張り裂けんばかりになっていた。

 

 ここは地味な町なのだろうか。それともただの住宅街なのか。この町の何があの人を狂わせたのだろう。

 私は田無駅を降り、薄弱児のように突っ立っている。もう何度か来ているので迷う事なくその場所へ向かう事はできた。しかし私はためらい続けている。ああ何故私はここにこうしているのだろう。あの人もここに立ちすくんでいる事があっただろうか。家に帰るのが嫌で、気持ちを持てあまし、ここでこの景色を眺めていた事があっただろうか。

 

 あの人の父親が経営していた豆腐屋は、今やビデオショップに変わってしまっている。とても誠実で真面目な人だったとの事だ。

 私は客を装って店内をぶらぶらと歩き回っている。あの人も幼い頃この地を踏んでいただろうか。この壁に寄り添っただろうか。今ここに、私がたいせつな気持ちでこうしている。

 ここが豆腐屋だった頃、店をきりもりしていたあの人の父親はどんな気持ちで死んでいったのだろう。朝な夕なに恨み事を叫び、泣き狂う妻を突き放せず、失踪したあの人を見つけ出す事もできず、八方ふさがりの状態に追い込まれながら何を祈っただろう。走り来る電車に飛び込む瞬間、恐くなかっただろうか。葬儀すら出さなかった妻を恨まなかっただろうか。そして、今は安らかだろうか。

 

 ああ、この家であの人は生まれ育ったんだ。

ひと気のない一軒家の前で私は立ちすくむ。伸び放題になった雑草たちが立ち入る事を拒否しているようだ。

 あの母親はどうしたのだろう。あの人を追いかけてどこへ消えたのだろう。それとも実はまだこの荒れ果てた家にひとり、ひっそりと暮らしているのだろうか。家の中で息をひそめ、あの人の帰りを待ちわびているのだろうか。

 あの母親の、しぼり出すような声が頭の奥に蘇る。ひどく狼狽しながらも力の限り手を伸ばし、あの人の手と間違えて鉄格子をつかんでしまったあの時の私。あの人の細身のシルエット。ゆらりゆらりと揺らぎながら、すうっと消えていった、あの時のシルエット

 …そろそろ帰ろう。いつまでもここにいたって仕方あるまい。私は一体何をしにこんな所まで来たのだろうか。誰にともなくふっと笑って、背を向け立ち去ろうとする。

 その時だった。一匹の野良猫がちょろちょろと走り出て来た。立ち止まり、ぺちゃくちゃと咀嚼をしている。こんな家によくもぐりこむ気になるものだ。しかし食べ漁るようなものがあったのか。何気なく、何気なく家の玄関先に目をやる。

 

 その瞬間、私は眼球と黒い記憶だけをその場に残し、その他の肉体、精神、すべてを暗い闇の奥に放り投げられていた。何が起こったのか理解できない。実際には何も起こっていない。声になり損ねた悲鳴。飛び出さんばかりの両眼。私の全身はぴたりと動きを止め、一歩たりとも動けなくなっている。

 それは生ゴミだった。玄関先にちょこんと置かれた生ゴミ。先程の猫が喰い荒らした跡がある。

 荒れ放題の家。まともな神経の人間はまず住む気になるまい。住んだとしても何かしら手を加えるだろう。こんな家に住めるような、そんな人間はたったひとりしか思い浮かばない。雑草に足を傷付けられながら玄関に突進する。

「村田さんっ、村田さんっ」

 両手で入り口を壊さんばかりに叩く。

「いるんでしょう、開けてくださいっ。村田さん」

 感じた、

 確かに、

 人の気配を。

「村田さん、教えてください。あの人は今どうしているんですか。まだ入院しているんですか」

 ガンッ。強い衝撃に驚いた私は思わず飛びのく。

 何を投げつけたのだろう。玄関の磨硝子に走る一本の亀裂。

 間違いない、あの母親はいる。しかし、あの人もいるのだろうか。いるとは思えない。 ああ思考が乱れ飛んでまとまらない。

 

 血相を変えたまま電話ボックスに駆け込む。分厚い電話帳をめくり、極度の興奮の為ぶるぶると震える指でプッシュボタンを押す。呼び出し音、ニ回。

「はい、S総合病院です」

 受付の女の堅い声。

「もしもし…」

「はい」

「もしもし、あの…」

 私は一瞬喉を詰まらせる。

「そちらに村田佳代子という女性が入院しているか調べて頂けませんか。…多分、精神科だと思うのですが…」

 女が極めて事務的に即答する。

「プライバシーに配慮しまして、そういう事はお答え出来ない事になっています」

 私は黙って受話器を下ろした。電話ボックスを後にし、田無駅に向かってだらだら歩き出す。だが途中で歩けなくなり、ベンチにへたりこむ。そのままいつまでも動けずにいる私を時間が置いていく。

 

 事件は四年前の春にさかのぼる。

 そこでの異常な体験を記そうと思う。

 今ここで、再びあの日々に戻ろうと思う。

 

     第二章

 

 利恵子、利恵子と私を呼ぶ優しい声が聞こえる。

 振り返る。にこにこと満面に笑みをたたえたまま振り返る。

 そこには…。

 無邪気に笑いさざめく私がいる。

 生まれ育った横浜の家が見える。

 父と母の笑顔がそこにある。

 兄と妹がおどけて私を笑わせている。

 大学に入学した十八歳の春。

 柔らかな風が吹いていたとても温かな、あの四月の第三金曜日。

 その日の事を私は生涯忘れないだろう。

 あの日、あの場所に行かなければ、異なった現在があったかも知れない。

 しかし私は迎えてしまったのだ。

 後々私の人格及び人生をも破壊に導いてしまう運命の日を。

 

 その日、私は友人に誘われるまま渋谷のライブハウスに足を踏み入れた。その店はセンター街のはずれ、小さなビルの四階にある。店の名は「ロフトスペース」。

 暗く狭い階段を静かに登る。スプレーによる壁の落書き。踊り場の隅にためられたコーラの空き瓶。汚れたダンボール箱。頭上には埃にまみれた裸電球がユラユラと小さく踊りながら、周囲に出来る影を大きく踊らせている。ベタベタに張り散らかされたライブスケジュールやメンバー募集のチラシ。散乱する猥褻な雑誌。もう心臓に響いてくるドラムの振動。私の前を歩いていた友人がドアを押した。

 形容しがたい異様な雰囲気に満ちている。薄暗い汚れた空気の中、充満しきった煙草の煙。紙コップや吸い殻の散らばった床。ボーン、ボンボンとギターの弦を弾く音。

 床に足を投げ出し、ぼんやりと一点を見つめている少年。首から何本もの鎖をぶら下げた少女が走り抜ける。逆毛を立てた髪を真紅に染めた少年が、堂々と腕に注射針を刺している。そのすぐ横で、クスリでイカれた少年が跳ねるように踊り回っている。

 私はいかにも場違いだった。

 演奏しているのはこの春に自主製作のレコードを出したばかりだという少年五人によるパンクバンドだ。それぞれ中性的な雰囲気を持つ美形なメンバーたちである。隣にいる友人は熱心に見入っている。私はといえば人目を気にするばかりで演奏を楽しむどころではなかった。

 相当人気の高いバンドらしい。フロアにいる大勢の少年少女が、揃って拳を振り上げ踊り狂っている。みんな目を血走らせ、叫び、唾を飛ばしたり、時にはステージに駆け上がったり突き落とされたりと、ほとんど正気の沙汰とは思えない熱狂ぶりだ。私は居心地の悪さに往生するしかなく困り果てた表情でじっとしているよりなかった。

 その時だった。

 フロア全体が大波のように揺れる中に「宇宙人」を目撃したのだ。

 …違う、人間だ。

 しかしそこにいたのは、異星人のごとき妖しげな雰囲気をかもし出している美少年だった。大揺れに揺れている人々の中、たったひとりでポツンと浮いている。病的なまでに色白で痩せ細っている。その華奢な肢体をスリムなスーツに包み、無表情なままじっと目を伏せている。

 異色だった。それぞれかなり個性的な観客ばかりだったが、その中でもひときわ強い個性を放っている少年だった。

 それが、私の運命の異星人だったのだ。

 

 その日から私はぼんやりとする事が多くなった。あのライブハウスで見た妖艶な少年が忘れられなくなってしまったのである。

 それほど少年は美しかった。無表情に静止したままのその姿は、ともすると命なき造花を思わせた。伏せたまま上げようとしない視線の行方はどこに向けられているのだろう。まるで破損しやすい瀬戸物のようだ。薄い影を落としはかなげに咲く、体温を持った陶器。

  私はひとりで頻繁にそのライブハウスに通うようになる。朝な夕なに高鳴る心を押えきれずに。

 また、異星人もよく店に来ていた。だがいつもひとりで誰かと一緒にいた事はない。いつの間にか現れ、定位置に落ち着き、黄昏れたまま佇んでいる。ただ無表情で、ただ異質だった。

 その俯き加減の横顔は冷酷なまでに美しく、心なしか憂いを含んでいた。私は近寄り難さを察知し遠くから横顔ばかりを追い続け、異星人はそんな私の熱視線を無視して視線を宙に泳がせ続けた。

 永遠に気付かれなかった私と、永遠に自己愛のみに生き続けた異星人とのうたかたの夢物語、異常な時はこうして始まったのだ。

 

 日曜日の原宿。まだ誰もいない、閑散とした早朝の歩行者天国をぶらぶらと歩く少年がいる。

 …異星人だ。

 真夏だというのに黒いジャケットを羽織っている。左胸に飾られた紫色のコサージュ。首から下げられた銀色に光る十字架。華奢な足首になされたアンティークなメンズウォッチ。青白い指先には鮮やかなブルーのネイルがほどこされ、スケルトンをデザインした指輪がいくつもはめられている。

 私は静かに近付いて行き、さりげなく並んで歩き出す。

 私に気付かない筈ないのにこちらを見ようともしない異星人。

 モノトーン調のメイクがとてもよく似合っている。野性のウルフのようにデザインカットされた髪が、肩のあたりでふわふわと踊っている。ところどころにほどこされたメッシュが、黒髪の中できらめいている。

 私はゆっくりと歩きながら、何と声をかけて良いものかしばし途方に暮れる。

 今日こうして逢えたのは偶然ではなく、あなたがきっとここにいるという予感がしたからなのよ。そう言いたくて唇を開きかける。

「あの…今日は私…」

 異星人は無言のままぶらぶらと歩き続けている。私の言葉を聞いている様子もない。

「私、ここに…」

 やっぱり異星人は無言のままだ。

 

 十階建てのビルの階段。登りきると灰色のドアが見える。がっしりと重そうなドア。しかし何故か鍵がかかっていない事を、異星人は知っている。

 開け放した途端に感じる八月の太陽。涼しい風が吹いている。自殺防止の為か、それともただの安全の為なのか、高い鉄柵が張り巡らされている。

 異星人は鉄柵に両手をからめる。空を仰ぐ美しい喉元。見とれる私。閉じた瞼にわずかに浮かぶ青い血管が、直接命の鼓動を感じさせる。

 私、いつもあなたを見ていたわ。いつもいつも…。気持ちを伝えたい。だが言葉など何もいらないという気もする。ただこうしているだけで良かった。

 やがて異星人がゆっくりと目を開いた。

 そして、ポツリポツリと言葉を落とし始めたのだった。

 

 僕は子どもの頃から空想癖が強かった。

 人といるのが嫌いで、ひとりで考え事をしている時が何より幸せだった。こういう高い所に来るといつも考える事がある。昔から、いつもいつも…。

 遥か彼方の上空、黒い大きな鷹が見える。大空と戯れるように飛んでいる。

 じっと見守る僕。不意に視線が合う。何故だろう、こんなに遠い距離にあるというのに。

    鷹が僕に向かって飛んで来る。僕は鷹が来るのを待ち受けながら、何をして遊ぼうか胸をときめかせている。鷹が大きな羽根を広げ降りたって来る。そしてその強い両足で僕の胸ぐらをつかみ、再び空に舞い上がったのだ。僕は鷹にされるがまま、嬉しそうに空に舞い上がる。

 重くはないかい?僕は鷹に気を使いながらくるりと顔を動かして地上に目をやる。

 ミニカーにしか見えない自動車が、何台か駐車されているのが見える。アスファルトに書かれた「止まれ」という白文字。十階建てのマンションを、こんなふうに上から見るのは初めてだ。ふたつのビルに挟まれた二車線道路。僕はそのちょうど上空に浮上している。ちらりと横を見るとビルの屋上が割と近くにある。たくさんの鳩が戯れている。その気になれば飛び移れるかも知れないが、僕にはまったくその意志はない。ビルの窓硝子が汚れて手垢まみれになっている。デスクの上に置かれた分厚い書類の束。あれは重要書類だろうか。

 鷹を見上げてみる。僕の胸元をつかんでいる両足には太い血管が無数に浮かび上がっている。黄色がかった白い足に赤い血液はよく目立つ。腹のあたりには細かい羽根がふさふさと生えている。触ってみた感触を想像してみたら手が汗ばんだ。不意に優しい気持ちになる。

 鷹の体はあまりにも大きく顔が隠れてしまっている。これでは君の顔が見えないではないか。ねえ君の顔を見せてよ、僕と話をしたいんだろう?僕は君みたいに僕と友達になりたいと思ってくれる奴を待っていたんだよ。君もそうなんだろう?

 そう訪ねようとした瞬間、

 鷹は、 

 僕を、

 離した。

 ちょうど水平に見えたビルの屋上の鉄柵が、下方に見えた電信柱のてっぺんが、手垢にまみれた硝子窓が、するすると登っていく。遥か下方に見えた駐車中の自動車が、青いポリバケツが、郵便ポストが、アスファルトが、「止まれ」の白文字が、ズームのように近付いてくる。本来それらが上に登ったのではなく、またそれらが近付いて来たのではなく、事実は案外簡単なものだった。

 アスファルトに叩きつけられた瞬間、それまでに経験した一万倍の痛みが僕の全身を砕いた。顔の骨といわず、肋骨といわず、腰の骨といわず、すべての骨がメリメリと音を立てて砕け散る。頭がばっくりと割れ、脳が飛び出していったようだ。口からゴボゴボと血が流れ続ける。僕の片目はつぶれてしまったようだが、もう片方は閉じる事をしない。何もかも、僕の意志に関係なく。

 ザラザラのアスファルト。濃いグレーに白文字。荒れた肌に分厚く塗り込めた場末の舞台役者の厚化粧を思わせる。その上を僕が吐き出した赤黒い血が覆っていく。いいよ、その肌を僕が隠してあげる、ね。

 それにしても何と静かなのだろう。真っ昼間だというのに人ひとり通りはしない。ああ何だか眠くなってきてしまったよ。口の中はベトベトしているし、体中痛くてたまらないんだけど。

 そうだ、僕をこんな所に落としたあいつはまだいるのかな。僕はひどい睡魔と戦いながら、ギョロリと空を見上げる。鷹は同じ場所で、じっと僕を見下ろしていた。僕は眠りにつく前に少しは愛想のひとつもと思い付き、鷹に向かって笑いかけようとした。しかし顎の骨も砕けている上に歯も折れている。なかなか思うように笑えないや。ごめん、悪いね。

 そう思った瞬間、

 鷹はくちばしを歪め、

 ニタッと笑った。

 僕はようやくアスファルトのザラザラの中へ沈んでいく事が出来たのだ。

 

 もう時刻は夕方に差しかかっている。このビルの屋上で鉄柵にもたれ、今日一日を共有した私たち。微笑したままもう一度異星人を見る。

 長いまつ毛に夕陽が影をつくり、優しい風が髪を撫でる。もう何も言わなくなった、伏し目がちのエイリアン。たまらない程の愛おしさがこみあげる。

 ああ私たちは、明日もここにいるでしょうね、きっと。

 

     第三章

 

 氷の宮殿が見える。

 遥か遠く、きらきら光るアイスパレス。

 領土に踏み込む私。

 そこにはあの人がいる筈だ。

 私は走る。

 狂気に満ちた白い世界を。

 誰かの私を呼び戻そうとする声が聞こえる。

 そこに行ってはいけない、戻っておいでと。

 私は振り返らない。

 もうあの人の事しか考えられないのだから。

 宮殿のテラスに佇む細身のシルエット。

 力いっぱい叩く門。

 こぶしに響く痛み。

 お願い、私を入れてちょうだい。

 冷たい宮殿と、冷血エイリアン。

 入れてちょうだい、入れてちょうだい。

 ギイッ。重々しい音を立ててわずかに開かれた門。

 氷の宮殿は私を吸い込み、その門が開く事は二度となかった。

 

 しとしとと小雨が降る。灰色の雲が果てしなく空を覆う。静けさだけが漂う延々と細い道が続く中、家出娘になった私が歩いている。

 その朝自宅にかけた電話に出たのは、心配しきった妹の声だった。妹によって母が警察に私の捜索願を出した事と、突然姿を消した私の身を家族中でどんなに心配しているかを聞かされた。私はすまない気持ちでいっぱいになり何も言えなくなってしまう。

 利恵ちゃん、今どこにいるのか教えて。

 涙声で叫ぶ妹に、私は無言で受話器を下ろした。

 

 千葉県銚子市ー。これが私の新しい住所になる。届け出など勿論出していない。アパートを借りる手続きは思ったよりも簡単だった(無論保証人を立てる必要はあったが)。

 繁華街から離れたさびしい場所にそのアパートはある。六畳一間に台所と小さな風呂とトイレ。家賃は二万円だ。

 私は銚子に来て部屋代の安さに驚いた。都心でこの値段で部屋を借りるとなれば、風呂もトイレもない四畳半がいいところだろう。

 汚らしい外見の木造アパート。薄汚れた砂壁。曇り硝子窓。陽の当たらない湿った室内。狭い共同玄関。裸電球。

 そんな部屋に、私と異星人が共に暮らし始めてもうニ週間ほどになる。この部屋は、異星人のいる空間だけがいつでもふわりと浮いている。

 私は働かなくてはならない。家を出る時に持ってきた金は、アパート契約の際に使い果してしまった。何もしない、何も語らない異星人との生活を支える為に、この異常な空間を守る為に働かなくてはならない。食べる為に、ではなく隠れ続ける為に。

 

 異星人はあまりものを食べない。

 もうひと月近く生活を共にしているが、異星人が「何かを食べた」という記憶がないのが不思議だった。そんな異星人と常に行動を共にしているうちに、私も自然と食事をとらないようになっていった。

 勿論金がない事もあったが、家出して以来、常にいつ見つけ出されるかという恐怖感と、いつ消えてしまうか分からない異星人に対する緊張感が解けず、食欲というものが訪れた事がなかった。

 空腹である時に食欲があるとは限らない。丸ニ日間何も食べずに過ごした後、果実を丸ごと飲み込んだ事がある。いつしか私はどんなに空腹でたまらない時でも、目の前にある食べ物を決して手に取らなくなっていった。

 食する行為そのものを恐れるならば、人は生きていけないだろう。

 

 銚子の海はさびしい。決して美しくはない。

 海岸をぶらぶらと歩いて行く異星人の少し後を歩きながら、子どもの頃、家族で行った海水浴を思い出す。父も母も久し振りに着る水着に緊張し、全員が大張り切りで出かけたものだ。あの時の、みんなの笑顔。

 今私の目の前に広がる灰色の海面。一の字を描いた水平線。

 不意に優しい気持ちになる。これから私たちはどうなるのだろう。一年先どころか明日の事すら分からない。それでもこの海は変わらないだろう。私たちを忘れずにいてくれるだろう。押し寄せる波は、美しい異星人に触れようとしているかのようだ。

 駄目よ、この人には私だって触れる事は出来ないのだから。

 異星人が、軽く息をついた。

 

 その時、僕はヘリに乗って海上を飛びながら必死に人を探していた。

「もっと低く飛んで」

 操縦士に言った後、ヘリから身を乗り出すようにして海面に見入る。

 いない。

 いない。

 もう溺れてしまったのか。

 更に身を乗り出しながら、自分がいったい誰を探しているのか思い出せずにいた。

「あ、あそこに何か見えます」

 帽子を深くかぶった操縦士が低く呟く。

「近付いてみましょう」

 水面には確かに人が暴れているような水しぶきが見える。それをもっとよく確認しようと身を乗り出した瞬間、操縦士は突然機体をいっぱいに傾け、僕を裏切ったのだった。

 僕は海へ逆さに落ちた。もの凄い水しぶきが上がる。必死で水面に頭を出し、足で水をかく。だが僕は泳げない。死にもの狂いで手足をバタつかせる。そのたびに白く細かい泡たちが僕を襲う。苦しい。声にならない悲鳴が僕の口から飛び出す。

 あの操縦士は何故こんな事をしたのだ。ひどい、あんまりだ。ヘリは僕を見捨て、はるか遠くへ飛んで行ってしまっている。

 僕は必死に呼吸を試みるが、鼻から耳から口から入ってくるのは海水ばかりで今にも気が遠くなりそうだ。瞬きをする必要もなく、僕の両眼は海水によって濡れている。何という痛さ。

 それにしても海面の上と下では景色はこんなにも違うものなのか。風の都と水の都。僕の手足は次第に麻痺して動かなくなっていく。

 ずるずると水の都に沈んでいきながら、ああやっと楽になれると感じる。だが相変わらず息は苦しい。早く気を失って死なないだろうか。

 その時、誰かが僕の足首をつかんだ。驚いて振り返る。そこには…。

 そこにいたのは僕の母親だった。

 母は僕を見て心から嬉しそうに微笑み、僕はやっと探していたのは母の死体だった事を思い出し、それと同時にあの操縦士は父である事を悟ったのだった。

 

 私は静かに海を眺めながら、この海がいつでも見える場所で働く事が出来たらと願う。

 どんな職種でもいい。異星人の近くにいられない時はこの海を眺めていたい。少しでも不安をかき消してくれるのならば、どんなものでも構わない。

 

 翌々日、私は小さな会社のアルバイト作業員になっていた。大きな窓からいつでも灰色の海が見渡せる場所ゆえに、私はその会社を選んだ。仕事は雑用がほとんどで、朝の九時に始まり夕方五時に終わる。月給にして八万円程度だったが、家賃は安い上にニ人共ほとんど食事をしないので、何とかやっていけるだろうと思った。

 その会社には社長と呼ばれる中年男と経理の女がひとり、それに営業の男が二人いた。四人とも、何となく私を変わり者扱いしている様子だったが、私はプライバシーに触れられる事を極端に嫌うようになっていた上、その頃から人と話をするのが面倒、かつ苦痛になっていたので放っておかれようと仲良く出来なかろうとまったく構わなかった。四人が仲良く雑談したり帰りに食事に行く予定を立てていても、私は決してその中に入っていこうとはせず、五時になるとそそくさと帰って行った。

 今思えば、私の心の病いはこの頃から本格的に悪化していったのだろう。人間関係を円滑にする事などどうでも良い事になりつつあったのだから。何より、人が嫌いになりつつあったのだから。

 私がアパートに帰り着くと、異星人は大抵窓辺でぼんやりとしている。ドアを開閉する音にも私の足音にも決して反応しない。私が小さく声をかけても知らん顔のままだ。

 そして私は床の上にへたり込み、一日の緊張感をひとりで癒すと共に今夜これから始まる新たなる緊張感に震えるのだった。

 異星人は外国製のかなりニコチンの強い煙草を好んだ。どこで買ったのか、少し変わったデザインの黒いスリムなライターを愛用していた。異星人がその薄い唇にロングスリムな煙草を軽くくわえ、カチリとライターを鳴らした後に、まっすぐ吐き出される煙の行方を追うのが好きだった。

 異星人の容姿には欠点がない。まるで神様が丹精こめて作り上げた宝石のようだ。

 ねえ、お願いがあるの。あなたが隠している天使の歌声を、ほんの少しだけ聴かせてくれないかしら。

 私の想いは届かない。同じ酸素を吸っていながら、異なった息吹しか流れてこない異次元の人。

 この驚くほど長いまつ毛が私の肌をくすぐる時があるのだろうか。赤ん坊のような素肌に私の体温を移す事ができるだろうか。そうだといい。そんな時が、いつかきっと来るといい。その日まで私はここで願いをこめて唱え続けよう。心の中で、同じメロディーを歌い続けよう

 もうそろそろ夏が終わる。今年の夏は暑かったのか、涼しかったのか、何故か記憶が曖昧なままだ。

 ならばこの冬はどうだろう。私は思わずぶるぶるっと身震いする。

 

 銚子で借りたアパート。

 そこの大家さんを思い出す時、私は彼女の哀れむような笑顔しか浮かばない。そう、その人はもうすぐ死にいたる動物に対する眼差しを持っていた。

 家賃を支払いに行った際にとても優しい言葉をかけられた事がある。顔色が悪いと言っては野菜や肉を、若いのに元気がないと言っては菓子パンを手渡された事もある。私はそのたびごと、泣きすがりそうになった。

 両親はどうしているだろう。兄や妹は元気だろうか。私は一家に暗い影を落としてはいまいか。ああ、あの時、いっそ泣きすがってしまえば良かった。

 大家さんから受け取った肉や野菜は、調理する事なく腐らせてしまった。菓子パンにもついに手を付けなかった。放置されたままのむきみのパンが段々と乾燥してカリカリになっていく様を、私と異星人が幾日間も空腹をこらえながら観察し続けたなど、彼女は想像もしなかったろう(まったくあれは気ちがい沙汰だった)。

 私は今でも考える事がある。大家さんが放ってさえいてくれれば、私は今でもあの木造アパートで異星人と静かに暮らしていたのだろうか。

 

 その店は渋谷のあの店によく似ている。

 千葉の繁華街に位置するライブハウス、「ダンシング・ベイビーズ」。煙草の匂いが充満した暗い店内。鋭い瞳の少年たち。ライブハウス独特のどんよりとした空気。

 うつむきかげんに壁に寄り添う異星人。その横に寄りそう私。

 ステージのみならず、店全体を演奏によってシェイクするバンドマン。狭いフロアにて踊り狂う、我を忘れたパラノイアたち。熱い、何て熱いプレイ。

 ああまるで古い映画を見ているような気持ちだ。今年の四月、初めて足を運んだ渋谷の「ロフトスペース」。あの夜も、店内は大揺れだった。今夜と少しも変わらない。

 壊れそうな人形がそこに置かれてあった。ポツンとただ置かれてあった。私は人形に命を吹き込もうと近付いた。そして気付いたのだった。命を必要としないからこそ、人形は何万年でも美しいままいられるのだと。この人は何も変わらない。今もあの日も、何ひとつとして変わっていない。しかし私は…。

 私は自分の眼から、幾粒もの涙がポタポタ落ちていくのをただ黙って見ていた。そうしながらこの何カ月間か泣きも笑いもしなかった事を、遠くひとごとのように思う。

 堰をきったようにあふれ出る思い。ああ何て事だろう。どうしてこんな事に。だが今の暮らしを変えたくないし、何より異星人を手放したくない。だからこのまま続けていくしかない。だがこのさびしさを何と表現しようか。汚れた床を潤していく、私の涙たち。

 …それまで無言でいた異星人が、私の耳元に顔を近付けた。

 

 僕の家にはね、ネコがいた事があったんだ。真っ黒くて小さくて、本当に可愛かった。

 僕はあまり学校に行かなくなっていた頃でね。そのネコに夢中になってますます家に閉じこもるようになっていったんだよ。

 ある朝目が覚めてみるとネコの姿が消えていた。僕は慌てて探し回ったけれどどこにも見当たらない。母さんはそんな僕を真っ赤な目をして見ていたよ。

 しばらくして父さんが帰って来た。僕はネコの行方を訪ねたがはぐらかされてしまう。

 何故二人ともきちんと答えてくれないのだろう。何だか変だ…。

 その時、父さんが僕を呼んだ。優しい声で呼んだ。

 なあに。振り向くと腕をがっしりと捕えられる。

 どこ行くの?

 父さんは何も言わず僕を車に乗せる。

 バタン。ドアが閉まる。父さんがエンジンをかける。途方もなく不安な気持ちになり振り返ると、母さんが玄関先に立ちすくんだまま顔をくしゃくしゃにして泣いている。

 車が走り出す。僕は母さんに助けを求める。すると母さんはもう我慢出来ないとばかりに追いかけて来た。しかし間に合わない。

 車はずんずん走って行く。父さんは緊迫した面持ちで前方を見たまま汗すらかいている。

 どこ行くの?

 もう一度訪ねてみたがやはり無言のままだ。一体どうしたというのだろう…。

 その時、僕は助けを求めるネコの悲鳴を聞いたのだ。

 ハッと顔を上げると窓の外を「保健所」が流れていく所だった。

 まさか…。全身の血が逆流する。まさか父さんは…。

 やがて白い大きな建物が見えてきた。大勢の白い手が僕に向かって伸びて来る。人の不幸をケラケラ笑うかん高い声。太い注射針を振りかざした白衣の悪魔たち。白い幻覚剤を突き付ける赤鬼。じゃらじゃらと鎖を引きずる重い音が響き渡る。

 それらが精神病院だと分かった瞬間、僕は目茶苦茶に暴れ出し走行中の車から飛び出した。

 頭から血を流しながら必死で走る。父さんは僕をあのネコのようにするんだ。母さんの泣き顔を思い出す。母さんも知っていたのだ。父さんも、そしてあの母さんさえも僕を見殺しにしたのだ。

 父さんが僕を追いかけて来たかどうかは覚えていない。それ以来父さんには一度も会っていない。今となっては会える筈もない。あの父さんを自殺に追い込んだのは一体何だったのだろう。

 今となっては分かる筈もない。

 

 もうあかりが消えた繁華街。まだ演奏による耳鳴りが続いている。照明が落とされた画廊のウィンドウの中、森の中に存在する湖を描いた油絵が飾られてある。

 立ち止まりじっと見ている異星人。湖に何か思い出があるのだろうか。何を思っているのだろう。私は何気なくウィンドウに映った自分の顔を見る。そして全身に鳥肌を立てた。

 …そっくりだ…。

 頭の中に響き渡る、先程までいたライブハウスの観客たちの言葉。私と異星人をジロジロと見比べるようにして囁きあっていた。

「あの二人きょうだい?それとも…」

 

     第四章

 

 異星人と暮らした五ケ月余りの日々を、私は生涯忘れないだろう。それは筆舌に尽くしがたい、異常な時の連続だったのだ。

 私たちの間には何もなかった。会話も笑顔も束縛も、それらにともなう一切の感情もなかった。触れ合う事も、抱き合う事もなかった。

 私たちはとても静かに暮らしていた。光も音もない灰色の空間にフワフワと浮かんでいた。私はそれで良かった。このまま永遠に地に足先を降ろす事なく、ユラユラと生きていたかったのだ。それなのに…。

 異星人は時々ふらりといなくなる事があった。どこへ行って何をして来たのかさっぱり見当がつかない。だが戻って来ると必ず上着のポケットにくしゃくしゃの札が何枚か入っている。そしてその後何日かはひどく疲れた様子でぐったりとしている。決まってそうだ。

 異星人に一度だけプレゼントをされた事がある。明け方の浅い眠りの中、異星人の足音を感じた私は、枕元にきれいにたたんだワンピースが置かれてあるのに気付いた。

 鮮やかな、とても鮮やかなその赤いワンピースは確かに誰かの手縫いだった。私は嬉しさに頬を紅潮させながら、そのワンピースに袖を通してみる。異星人は礼の言葉を聞く様子もなく知らん顔をしていた。もう東の空が白み始めた時刻、電気をつけない室内にそれはあまりにも眩しすぎる赤色だった。

 異星人が泣いているのを一度だけ見た事がある。夕焼けに部屋中を橙々色に染められながら、異星人は壁にもたれて遠くを見ていた。いつもと同じまったくの無表情だったが、まつ毛の間から次々にあふれ出る涙には切れ目というものがなかった。

 …一体何を考えてあんなに泣いていたのだろう、今になって不思議に思う。しかしあの時は特に何も思わず、ただぼうっと見ていたのだった。

 異星人は何も変わらなかった。渋谷のライブハウスに初めて現れた時から、ずっと異星人のままだった。

 そして私は変わった。異星人の吐く息を夢中で吸い込んだ。落とした視線を両手で拾い集め、ろくに噛みもせず無茶苦茶に丸飲みした。時折連れていってくれる幻想空間に、溺れる為に飛び込んだ。

 そうして私は徐々にむしばまれていった。おそらく、異星人と同じ病気に。

 

 私は

 エイリアンに

 なってしまったのだ。

 

 そして私たちが守っていた静かな世界にカミソリが落とされた。

 それは暮らしていたアパートの大家さんだった。彼女が日ごとに病的になっていく私を不審に思い、私が契約の際に立てた保証人に連絡を取ったのだ(余程怪しまれたのだろう)。

 私は契約時に、叔母に頼み込んで保証人になってもらっていたのだ。ろくすっぽ事情を説明せず、ただしばらく両親に内緒にしてくれと言った私も確かに悪い(しかし何をどう解説しろと言うのだ)。心配するなと言う方が無理な話だろう(しかし出来ればして欲しくなかった)。

 大家さんから連絡を受けた叔母は、動揺しながら私の両親に連絡を取り、相談した結果、三人で銚子まで訪ねて来たのである。

 

 何度か叩かれたドアは恐る恐る開かれた。

 そして三人は見た。人形のように動きもせず話もしない異星人と、病的に痩せこけ、変わり果てた私とを。

 三人が腰を抜かさんばかりに驚くのも無理はなかった。私たちは話しかけられようと体を揺さぶられようと何の反応も示さなかったのだから。

 動転していた父が異星人を見て叫んだ。十才くらいの男の子がいる、と。それだけはどういう訳か覚えている。ああそうか、彼らにもこの人の姿が見えるのか。私は混沌とした頭の中でその言葉を聞いた。

 困り果てた三人がどうしていたのか、その行動の詳細は思い出せない。本当に分からない。思い出せない。どうしても。

 だがそのままで済まされる筈はなく、私たちは病院へ連れて行かれてしまう。異星人は逆らう気もない様子で、いつものようにおとなしかった。そして私は抵抗する気力も体力も何もなかった。運命は音を立てて転がり始めた。

 私たちは囚われの身となってしまったのだ。

 

 ぼんやりと霧が立ち込めている。その向こうに中学校のグランドが続いている。

 私はそこをひたひたと歩いている。

 誰もいない静かな放課後。

 花壇の脇を擦り抜け、校舎の入り口にある靴箱の前で立ち止まる。

 一年一組の生徒用の靴箱。

 一年ニ組の生徒用の靴箱。

 一年三組の生徒用の靴箱。

 一年四組の、五組の、そしてニ年生用の、三年生用の靴箱が、それぞれ出席番号順にズラリと揃っている。

 私はそっと靴を脱ぎ、裸足のまま白い廊下を静かに歩き出した。

 廊下はチリひとつ落ちていない。とてもきれいに磨き上げられている。きっと前日あたり、生徒たちが一生懸命にワックスを塗ったばかりなのだろう。ひたひたと歩いていく後に、私の足跡がひたひたと残っていく。

 壁一面に生徒たちが画いたのであろう風景画が展示されている。私は仁科展の審査員になったつもりで一枚一枚採点しながら急に良い人を装ってみたくなる。まあ嬉しい。こんな素晴らしい絵を見せて頂けて。皆さん、とってもお上手でびっくりしました。みんなに賞をあげたいワ。

 天井から「廊下を走らないようにしましょう」と大きな文字で書かれた白い画用紙が吊されている。きっと先生が書いたものなのだろう。私は走り出したい衝動に駆られる。

 廊下の隅に生徒が育てているのであろう植物が並んでいる。私はひとつひとつに水をやりたい衝動を抑える。

 一年六組の教室の前を通り過ぎようとして、私はふと足を止める。

 誰もいない筈の市立田無第一中学校。

 その一年六組の教室の中から誰かの話し声が聞こえるのだ。わずかに開いている曇り硝子の窓。私はそっとのぞきこんでみる。

 古めかしい木の机が沢山並べられている。教壇の上に薄桃色の花がセンス良く飾られてある。黒板の右下に今日の日直の名前が白いチョークで書かれている。美しい夕陽が沈みかけながらも教室内をほんのりと赤く染めている。

 その夕陽に背を向けるようにして、ひとりの女教師が腰掛けている。向かいに紺色の制服をまとった少女がうつむいたままじっとしている。

 私は少女の顔に見覚えがあるような気がして目をこらしてみる。

 女教師がためらいがちに唇を開いた。

「村田さん、…ねえ、佳代子さん」

「…はい…」

 少女が伏せていた顔を上げる。驚くほど長いまつ毛が揺れる。

「あなた、どうしてしばらく学校に来なかったの?」

 その語調はあくまで穏やかで、限りなく優しい。

「村田さんだってお家に閉じこもっているより、学校に来ていた方が楽しいでしょう?ねえ村田さん、あなたクラスにお友達は?」

「…いません」

 村田佳代子と呼ばれた少女は恥ずかしそうに目を伏せる。

 女教師が深い溜息の後、ゆっくりと訪ねる。

「…学校、嫌い?」

 少女が静かにうなずく。

「先生だって知っているでしょう。私お友達なんてここにはいないもの。私みんなに無視されているんだもの」

 女教師も悲しそうに目を伏せる。

「でもいいの。ひとりだけ私の事、のけ者にしない人がいるから」

 少女は急に頬を上気させる。

「だあれ、誰の事なの」

 女教師の言葉はさえぎられてしまう。

「私、その人に恋しているのよ。とってもきれいで素敵な人。逢いたい時いつでも逢えるの、朝でも夜中でも。その人ね、他の子には知らん顔しているんだけど、私にだけはいつも優しいの」

 まるで誰かを説得するように得々と話し続ける少女。

 言葉を失い、すくい上げるように少女の顔をうかがい見る女教師。

「私その人の事、たまらないくらい好きだわ。毎日毎日その人の事ばかり考えて何も手につかないほどよ。でも…」

 少女は急に瞳を曇らせる。

「でもね、私たちお互いの事を本当に好きなのに一緒にいる事ができないの。そうしていたつもりが気付いてみるといつもひとり。他の誰にも分からないの。その人の姿は私にしか見えないの…」

 それまで無言でいた女教師がようやく口を開いた。

「…それは、何故なの」

 少女はしばしの沈黙の後、ポツリと一言落とした。

「だってその人…私自身なんだもの…」

 静まり返る教室内。もうとっぷりと日は暮れている。少女の虚ろな視線。女教師の哀れむような視線。そのふたつが溶け合い、薄暗い教室内を揺らぎながら泳ぎ続ける。

 私もそっと溜息を吐き、ようやく窓辺から離れる。そして再び白い廊下をひたひたと歩いて、静かに学校から出て行ったのだった。

 

 実に不幸な事だ。僕はただ純粋に僕自身を愛していた。ただそれだけだったのに、ああそれなのに、まったくひどい話ではないか。

 あれはいつの事だっただろう。…森の中…浮かぶ湖…。

 そう、湖だった。水面に映ったのは、僕がそれまでに出会ったいかなる生きとし生けるものにもかなわぬ美貌をたたえた、優雅なエルフの存在だった。まばたきを忘れた僕は、そのまま深い湖の底に引き込まれそうだった。

 僕はいつまでもこのままでいる事を望んだが、時間が経つにつれあたりは薄暗くさびしくなっていく。闇など少しも怖くはなかったが、水面のエルフが消えてしまう事だけを僕は恐れた。

 おいで。手を伸ばしエルフを抱き上げる。エルフは素直に僕を受け入れ、僕たちは何度も口づけを交わし、抱き合い、深々と交じわりあい、そしてそのままひとつになった。

 その日から僕は孤独を忘れた。

 鏡を見るたびにエルフは現れ、僕たちはすべてを忘れて愛し合った。僕は部屋に閉じこもり、誰にも会おうとしなかった。エルフは僕をこの上なく美しい、素晴らしいと絶賛した。僕はエルフ(もうひとりの僕)に愛される事だけを考え、容姿を磨きあげる事に夢中になった。

 しかしその頃、困った事に邪魔が入ってしまった。それは僕の父だった。父はかなり強引な手段で、僕たちを引き離そうとしたのだ。追いつめられた僕は、エルフを守る為に街へと逃れ出た。

 何度でも言う。僕は僕自身を最も愛した。何よりも高く評価し、この上ない価値観を見いだしていた。それ故に「この僕」を愛してくれる人々に、僕は「良い感情」を持つ事ができた。彼女らは、みな一様に眩しげに目を細めて僕を見た。僕はその視線の心地良さに微笑むかわりに目を伏せた。目をそらす事により僕は彼女たちの熱視線を釘づけにし、その心に僕の印象を深く刻みつける事に成功した。

 僕は知っている。僕のまつ毛がどれほど濃く長いかを。それにふちどられた瞳がどれほど青白く透き通っているかを。そしてそれらがいかばかりか人を魅了するかという事さえも。

 無表情に視線を宙に泳がせる事により、彼女たちは遠慮なく僕を見つめる事ができる。何も語らない事により、僕を(やや特殊な心境で)理解したような錯覚に陥る事ができる。僕と彼女たちは、互いに互いを幸福にしたような(誤解を含む)自己満足に存分に酔いしれる事ができた。僕は正常だ。異常かつ低俗なのは奴らの方だ。

 それなのに、あの看護婦は僕をこう呼んだ。

「村田佳代子さん」

 違う、僕はそんな名ではない。

 僕の母親と称する女は髪を振り乱して僕にしがみついた。

「佳代ちゃあん、どうしてえ?どうしてこんな事にいいい」

 ここはどこだろう。

 ぼんやりとしている僕をよそに、その女は更に声を荒げ言い放った。

「お母さん分かっているのよ。一緒にいた女が、その女が佳代ちゃんをおかしくしちゃったんでしょうっ。佳代ちゃんっ、ねえ、そうなんでしょう」

 女は言うが早いかくるりと身をひるがえし、そばに茫然と立ちすくんでいた痩せぎすの少女に猛烈な勢いで飛びかかった。

「お前を許さないっ、私の娘に何をしたっ、許さないっ、許さないいいっ」

 その少女に見覚えがあるような、ないような、疲労困憊していた僕はかなり曖昧だった。

「私を思い出して」

 女に髪をつかまれた少女が叫んでいる。

「ずっと一緒にいたでしょう」

    僕に懇願し続ける嘆きの少女。

 僕は少女を引きずり回すその見苦しい女が自分の母親だとはどうも思いがたく、無言のまま背を向け部屋を出ていこうとした。しかし僕の腕は何者かによってがっしりと捕えられてしまう。白衣をまとったその男が冷酷に言い放った。

「精密検査の結果が出るまで君はどこへも行ってはならないよ、村田佳代子さん」

 次の瞬間、僕は鉄格子の中に叩き込まれた。僕のすべては否定されたのだ。

「エルフ、ここに来てくれ」

 僕は天に祈りを捧げたが、エルフは僕の前に二度と現れなかった。時折見る鏡には、様々な薬の副作用によって赤黒くむくんだ、汚らしい小僧がうつる。

 実に不幸な事だ。そうして僕はそのままみにくい豚にされていったのだ。

 

 固く閉じていた目をそっと開いてみる。見覚えのないような懐かしいような風景。

 …ああそうだ。いつか見た油絵だ。そう、照明が落とされた画廊のウィンドウ。あの時の絵だ…。

 私は湖の水面に静かに横たわっている。静寂に満ちた森の中、ぼんやりと浮かび上がる湖のベッド。

 氷の宮殿。まるで龍宮城のごとく麗しき世界がここにある。かすかに聞こえる誰かのピアノ演奏。すすり泣くような細い歌声。青白き、幻想交響曲

 私の傍らには安らかな面持ちで眠る妖精がいる。まるで絵に描かれたような美しい妖精だ。

 私は予知している。もう間もなくこの薄い幸福が破れ去る事を。だから祈りを捧げる。お願い。もう少しだけ、あと少しだけこのままでいさせて。

 流れ星は見えない。ああもう壊れる。泣かずにいられない。流星はどこにも見えない。私の望みはかなえられまい。

 壊れる…。壊れる…。ああ壊れてしまう…。

 はらり、銀色の風が落ちる。

 その瞬間、恋人は白夜と共に消え去り、幻想空間は砕け散った。

 私は茫然と立ちすくむ。

 夢は醒めてしまったのだ。

 

     第五章

 

 夢が醒めた後、人は何を思うのだろう。夢であった事を否定し、現実化しようと試みるのか。それとも恐ろしさに身をよじりながら吐き散らかしのたうち回るのか。ああ夢だったのかとすんなりあきらめるなんて、そんな物分かりの良い人間がこの世に何人いるのだろう。見果てぬ夢を愛さない人間が、この世に何人息づいているのだろう。

 

 私は見た。幻想的な、とても幻想的な夢を。

 そして強く望んだ。現実化する事を。

 

 私が愛したのは現実と幻想の、そのちょうど空間を彷徨する人だった。私自身その空間を彷徨した。病に侵されつつもただひたむきに一点を見つめ、ああ私は一体どこへたどりつこうとしていたのだろう。

 私は自分の意志とは裏腹に、勝手に精神鑑定にかけられ、勝手に病気であると断定された(だから何だと言うのだ、勝手な事をするなと怒りたい)。

 彼らの早口にはついて行けなかった。何を喋っているのかさっぱり分からなかった。質問と詰問の区別がつかずに往生した。頭の中で知っているような、知らないような単語の群れが、がちゃがちゃと音を立ててぶつかり合い、ひとつずつ壊れていった。

 ああどこかで聞いた声だと思ったら私の声だった。自分がいつの間にか言葉を生んでいた。しかし何を伝えようとしているのか、私自身相当理解に苦しむ内容だった。

 どうも決まりが悪く、格好がつかず、何度も部屋を飛び出そうとして、そのたびに体格の良い青年たちに取り押さえられた(照れくさかった)。後にインターン生だったと知ってもっと照れくさくなった(照れている場合ではなかったが)。

 久し振りに会う父母はひと回り小さく見えた。兄と妹は巨人に見えた。保証人になってくれた叔母は、まるで宇宙人を見るような目をしていた。

 話しかけようと試みたが、何も出て来る言葉はなかった。微笑みかけようとしたが、あいにく笑顔の持ち合わせはなかった。

 卓上に手鏡が置いてあるのに気付く。私はそっと手に取り、自分の顔を映してみる。みんなが息をひそめて私の様子をうかがっているのが分かる。

 そして私は直視した。そげ落ちた頬と焦点の定まらない眼を付けた病人の顔を。

 無意識に悲鳴をあげる。思いがけず大きな声だったので、本人がいちばん驚いた。

 手鏡を投げ捨てた私はなす術もなく途方に暮れている。室内のすべての人々がなす術もなく私を見ている。そう、もうすぐ死んでしまう動物を見る目で。

 いや、そんな目で私を見ないで。そんな目で見るのだけはやめて。

 どこにも逃げ場のない事を知っていながら私は窓に突進する。

 利恵子、しっかりしてくれっ。

 遠くで父の声が聞こえる。母の泣き崩れる様子が視界の隅に入る。それでも私はおとなしくならなかった。

 無理もない。私が熱愛した恋人、異星人は母親の溺愛により発狂した精神病患者だったのだ。少年だと思っていたその人は、二十三歳の成人女性だったのだ。

 

 そう。…ああ、うん、そうだ。

 実を言うと私だってまったく何も気づかなかった訳ではなかったのだ。異星人と五カ月間生活を共にしていて、おやっと思う事があるにはあった。

 例えば異星人が手洗いに入ってなかなか出てこなかった時。私の生理用品が明らかに減少していた時。発熱した赤い顔で横たわっていた時。シャツからのぞく鎖骨を目にした時。

 また丸一週間何も食べずに過ごした後、部屋の隅に置かれてあった菓子パンの入っている紙袋を手に取った時(このあと異星人がその菓子パンを食べたかどうかは覚えていない)。

 私はそれらを見てしまった時、異星人がエイリアンではない事を、この同じ青い星の人である事を気づかずにいられなかった(冷静に考えればそれは当然の事ながら)。

 そればかりかその肉体は決して愛し合えない(交わり合えない)という事まで、まるで電流をあてがわれるような痛みと共に、もうやめてくれと泣き叫ぶほど思い知らされたのだ。しかし気付いた時にはもう遅かった。すでに手遅れだった。

 私はもはや異星人を愛し過ぎ、自分もまた幻想空間に溺れつつあったのだ。その黒々と渦を巻く、深い深い海からどうして脱する事ができただろう。

 それにそんな事はもうどうでも良かった。こんな愛を感じる相手はこの人しかいまい。私が愛した人である事に何の変わりもない。

 私は確信していた。もうほかの誰も愛せないであろう事を。

 もうひとつ、私自身が二度と氷の宮殿から出られない事も。

 

 最後に見た愛しい人は、いつもと変わらぬ様子だった。両腕を白衣の男たちに捕えられ、連れ去られようとしている所だった。私は動物的な直感でそれが強制収容であると悟った。だから暴れた。何とか阻止しようとした。

 駄目。治療なんかしないで。そんな事をしたらこの人はエイリアンでなくなってしまう。だから駄目。やめて。

 無駄な抵抗はあっけなく取り押さえられ、その影はゆらりゆらりとはかなく揺らぎながら私の視界から消えていってしまった。

 戻って来て。

 その言葉以外は忘れてしまった。

 戻って来て。

 細身のシルエットは振り返る事すらしない。

 戻って来て。

 父が、妹が、泣いている。

 戻って来てっ。

 戻って来てっ。

 戻って、来てえええええええええええええっ。

 

 老人のような脱力感。入院という名目の監禁。薬づけの日々が始まった。

 私は誰にも何にも逆らわなかった。青白く変わった指を鉄格子にからめ、そっと壁に身を押し当てて日々を過ごした。壁も鉄格子もひんやりと冷たく、私はついに触れる事すらなかった恋人に、初めて抱きしめられているような幸福感に酔いしれていた。

 しかし壁も鉄格子も何時間寄り添おうと、私の体温で暖まる事は決してなかった。私があの人のゆがみきった心の腫瘍をどうする事も出来なかったように。

 

 幼い頃、近所のいじめっ子たちのかっこうの餌食にされていた佳代子。

 四度の流産、二度の死産の後、佳代子を産み落とした母親の異常なる執着と溺愛。

 その母の愛に戸惑いつつも一切をゆだねてしまった佳代子。

 友人もなく、学校ではいつも孤立していた佳代子。

 遠足ではひとりで弁当を食べていた佳代子。

 中学生になる頃には、自室にこもり鏡と愛を語り合っていた佳代子。

 このまま放っておけば間違いなく破滅するのであろう娘に青ざめた父親。

 必死に佳代子を救うべく奔走した父と、ひたすら佳代子を篭の中に閉じ込めた母。

 精神病院に入れられる事を察知して、走行中の車から飛び出した佳代子。

 頭から血を流しながら逃げる佳代子を、泣きながら追った父親。

 帰る当てもなく、渋谷で浮浪児のようにさまよっていた佳代子。

 飢えに飢えたあげく、レズバーを経営する中年女性の目に留まり、生きる為に女の前に体を開いた佳代子。

 まるで母親の魂が受け継がれているかのように佳代子をいつしくみ、溺れ続けた偏執狂の女たち。

 異星人、村田佳代子。

 

 そのどれもが私には愛おしかった。

 どの佳代子も愛おしかった。

 自殺した父親も、事あるごとに平静心を崩した神経の細かい母親も、佳代子を愛してくれた多くの人々も。

 佳代子に関する事は何ひとつとして聞き漏らすまい。忘れまい。決して、決して忘れまい。心に誓いをたてた私は乱れた想いをかき集め、そっとしまいこむ。

 そうして私は毎月面会に来る両親にも顔を見せる事なく、セラピストや看護人にも心を開かないまま、失意の中でようやく異常な時が終わった事を悟ったのだ。

 

 私は九月の終わりに退院した。家族は昔と同じように五人で仲良く暮らす事を望んでいたようだったが、私はひと月もしないうちに再び家を出た。

 私は五人家族の思い出として、最後の夕食を忘れずにいようと思う。

 温かい湯気が立ちのぼる食卓を囲む私たち。そこに父がいる。母がいる。兄がいる。妹がいる。そして、私がいる。

 私が小学生の頃から一家の食卓として使われてきた、大きな木目のテーブルにおろしたての真っ白なテーブルクロスがかけられる。テーブルの中央に妹が買ってきた花が飾られる。母のいちばんの得意料理、温かいホワイトシチュー。兄がよそってくれる温野菜。妹が、これは自分が作ったのだと得意気に差し出すプレーンオムレツ。

 ほら利恵子、もっとたくさんおあがり。

 父が優しい声で言っている。

 他愛もないお喋り。兄と妹が軽い冗談を言い合い、二人の明るい笑い声が響く。一家団欒。みんなの笑顔が眩しい。

 ここは何て温かいのだろう。何て居心地が良いのだろう。ずっとここにいれば、ああそうすれば、また幸せになれるのに。

 私はこみあげそうになる涙を懸命にこらえ、ふと顔を上げると父も母も必死で涙をこらえながら笑っていた。二人とも、これが私との最後の夕食になるのだと、気付いていたのだろう。そして私は父と母の、つらさを含んだ笑顔を見て、そのまま心が張り裂けそうだった。

 

 私は明け方近くに家を出た。

 木目のテーブルの上に「みんな、おはよう」と走り書きしたメモだけを置いて。家族が起きてから、この短い手紙を何度も何度も繰り返し読むであろう事を思うと胸が痛んだ。

 随分歩いてから振り返る。生まれ育った家が遠くに見える。恋しくて、帰りたくて、そのまま立ちすくんでしまう。

 もう間もなく夜が明けるだろう。

 しばらく動こうとしなかった私はゆっくりと歩き出す。

 

 もうひとつの異常な時の始まりはすぐそこだった。

 

     第六章

 

 アパートの隣の住人がギターを弾きながら歌う声で目覚めた。

 目覚めたと同時にまだ生きていた事を、永遠に眠り続ける事なく再び目を覚ましてしまった事を、深々と後悔するとともに不思議に思う。

 壁の時計は九時半をさしている。今日は土曜日なのでアルバイトは休みだ。私は少しも休日を喜ばないまま、ベッドに身を沈める。

 天井が煙草のヤニでうっすらと汚れている。この部屋にもう三年も住み着いている。三年間煙草を吸い続けるとこんな色になるのか。では三十年間吸い続けたらどんな色になるのだろう。私は五十三歳の気分になって目を閉じる。

 

 再び目を開けた時、陽はすでに高くなっていた。心地良い五月の都会。窓を閉めきった六畳ひと間の木造アパート。私は死人のように横たわっている。

 そろりそろりと起き上がり、つっと立ってみる。すっかり贅肉の取れた体は木切れのように軽い。そして私という人間の存在も、命さえも、木切れのように軽い。

 私は窓に手をかけ、そこから見える見慣れた景色に見入る。

 すぐ前に食品工場がふたつ並んで建っている。その間の狭い路地にノラ猫がたくさん戯れている。倒したゴミ箱から残飯を食べ漁っている。水溜りの中に誰かが落としていった菓子の空き箱が濡れている。食べ終わった菓子の箱はくず箱に捨てなくてはならない事を教えてやらねばなるまい。煙草の吸い殻があちこちに散らばっている。大概踏み付けた跡があるが、中にはそうでないものもある。あれはきっと昨日の雨が消し止めたものなのだろう。

 窓から離れベッドに腰を下ろしながら、今日の過ごし方を考えてみる。私には時々ひとりで出かけるパブがある。ぼんやりと考え事にふけり、ふと顔を上げると必ず女性客の誰かと視線が合う。私など眺めていて何が面白いのだろう。

 フラフラと冷蔵庫を開けトマトジュースを取り出す。ここニ日ほどトマトジュース以外口にしていない。当然の事ながら冷蔵庫の中には飲みきりサイズのトマトジュース以外入っていない。

 缶からグラスに移しかえ、それを持ったままあいた手で髪をかきあげる。随分伸びた。もう何年も美容院に行っていない。自分でカットし、自分で部分的にブリーチをほどこす。いつだったか、あなたのヘアスタイルは個性的ね、格好がいいわ、などとほめられた事があった。あれは確かカウンターバーの女の子だった。あの時は別に何も思わず知らん顔をしていたのだが、今は何となく「有り難う」とでも言いたい気分だ。ふっと思い出し笑いをしながらもう一度髪をかきあげる。私は壁を背に、立ったままの姿勢で外国製の煙草をくわえ、カチリとライターを鳴らす。

 

 煙草を吸い終えてからさっと顔を洗いメイクにかかる。血色の悪い顔を更に青白く仕上げ逆毛を立てる。先日ふらりと入ったメンズブティックで買ったスリムなスーツをまとう。だがワイシャツは着ない。白地に外国のミュージシャンの名が大書きされているだぶだぶのシャツをさらりとかぶり、ジャラジャラといくつものチェーンを首から下げる。スケルトンをデザインした銀色の指輪を親指と人差し指にはめ込む。小指にはプチダイヤをあしらったピンキーリング。足首に男物の腕時計を素早く巻き付け、黒いボロボロのショルダーバックを下げる。勿論帽子も忘れない。

 私はどう見てもスタジオに向かうギタリストだろう。誰かによく似ているようだが、それが誰なのかは思い出さずに出かけよう。

 

 アパートを出て、通りをぶらぶらと歩き出す。前方からバギーを押した中年女が歩いて来る。そのバギーに赤ん坊の姿はない。空のバギーを何故押しているのだろう。バギーには赤ん坊の代わりに果物の入った紙袋が乗せられている。

 可哀想に。私は眉をひそめる。

 可哀想に。林檎や蜜柑はあなたに甘えてはくれないのよ。

 停留所にてバスを待つ。先に来て並んでいた何人かの会社員たちが、みんな一様にバスが来ると思われる方向へ物欲しげな顔を向けている。私も彼らの真似をして、バス待ち顔というものを顔の上に張り付けてみる。しかし私は彼らとは異なっている。私はバスなど待っていないのだ。

 突然歩き出した私を誰も止めようとはしない。もうすぐバスが来るから待っていようね、などとは誰も言ってくれない。そう、待っていようが歩こうが私の自由なのだから。

 しかしそれでも、私は切望する。

 お願い、

 誰か、

 私に話しかけて来て。

 私の前をひとりの老婆が背を丸めてとぼとぼと歩いて行く。その悲壮感に満ちた姿は五十年後、六十年後の私自身の後ろ姿を彷彿させる。私は寿命という瞬間までこの孤独を背負いながら生きていかなければならない。気の遠くなるような歳月を。

 それにしても生きとし生けるものの、生に対する執着心というものには実に驚く。虫だろうと鼠だろうと殺意を持って追い回せば、足がちぎれようと頭半分つぶれようと命ある限り逃げまどうではないか。動物や植物が自殺など、聞いた事がない。

 今ここに気の狂った通り魔が現れて包丁を振りかざしたとしたら、果たして私は逃げるだろうか。素直に刺され、おとなしく殺されるのではあるまいか。そして息絶えるその瞬間、狂人に向かって、殺してくれて有り難う、お陰で助かった、などと丁寧に礼の言葉を述べ、にこやかに死んでいくかも知れない。

 私は何も持っていないのだ。執着すべきものなど何ひとつとして持ち合わせていない。実に喜ばしい事ではないか。

 しかし通り魔は現れない。私は夜な夜な盛り場でフラついているにもかかわらず、誰ひとりとして私を刺す気にも、襲いかかって閉め殺す気にもなれないらしい。実に残念な事ではないか。

 友人がいないので薬物を手に入れるルートもない。あれで体をボロボロにしたあげくショック死できれば、などと考えるのは甘いのだ。まったくツイてない。

 さびしさは感じない。退屈を退屈と感じる事もない。一切の神経が麻痺してしまったかのように、私という人間はただ無表情でただ異質だ。

 …そういえばここしばらく、私は笑ったり泣いたりした事がない。

 …そうでもない。思い出し笑いや思い出し泣きはたまにするではないか。しかし何を思い出して笑ったのか、また何を思い出して泣いたのか、それを今言えと言われたら困る気がする。

 目の前には色の無い草原が無限に広がっている。そこには誰もいない上に何もなく、寒々しい風が吹いているだけだ。愛情という名の雑草もなく、待っていたよと唄う蝶も飛んでいない。私は一見気ままに歩いていく。しなやかな足取りでずんずんと突き進んで行く。しかし突然立ち止まり、猛獣のように声を絞り上げるのだ。

「私はここにいる、いつだってここにいたんだ」

そう叫んでその後どうするだろう。再びすたすたと歩いていくだろうか。それとも誰かが私の存在を認めてくれるまで、地団駄を踏みながら泣き叫ぶだろうか。

 私はいつの間にか迷子になった子どもの気持ちになり、声を出さずに泣きながらパパ、あるいはママを探して人込みの中へまぎれこんでいったのだった。

 

     最終章

 

 ああ、冬将軍の到来だね。私は交差点にて上空を見上げている。何て素晴らしい空からの贈り物だろう。まるで天使が舞い降りてきたようではないか。

 雪。雪。雪。

 柔らかな純白の雪たちが、あたり一面に咲いている。

 ねえ、教えてよ。ここに何をしにきたの?高貴な空を離れてまで地上に姿を現したのは何故なのか聞かせて。私に逢いに来てくれたの?地上の息吹にいざなわれたの?それとも誰かに背中を押されたの?

 いずれにしてもその行為は空しい。地面に落ちた瞬間、あなたはアスファルトに吸い込まれてしまうのだから。

 それでも雪は降る。一秒後の死を恐れずに踊り続ける薄幸の雪たち。

 ああそうだね。雪も人も同じだ。私は雪のような少女を知っている。

 その少女には、「雪乃」という名がよく似合う。

 

 雪の少女。

 本当の名は知らない。名前どころか私は彼女の何をも知らない。

 

 渋谷のライブハウス「ロフトスペース」。その薄暗い空間は、私を永遠に引き寄せて離さない。

 闇にまぎれ、静かに近付いて来た美少女。ゆっくりと眼差しをあてる私。彼女が何を欲しているのか、瞬時に見抜いた。

 だから、

 抱いた。

 この重苦しい殻を打破できるなら、ばっくりと裂けた傷口を縫い合わせる事ができるものならば、どんなものでも構わないと自分の事しか考えず。

 彼女を抱いた。そう、あの人を抱きしめたかったように。

 少女の肌は、まるで吸いつくようにぴったりと私によくなじんだ。ああ何て柔らかな身のうねりだろう。少女は猛り狂う波に溺れながら私を絶賛している。ずっと私を見ていたと、私の下で訴え続けている。

 もうこれ以上乱心できまい。

 頂点に達しながら、私はもっと壊れていった。

 

 以来、私は彼女のアパートにいる。仕事にも行かず、自分の部屋にも帰らず、夜な夜な渋谷をさまよう以外、死んだように眠っている。

 目覚める少し前、いつも同じ夢を見る。ドラムの振動が心臓に響き、しぼり出すような激しい歌声が脳に届けられている。汗だくの私は、必死にステージに近付こうとしているが、鉛の両足はどうにも前進しようとしない。ああ見えない。聴こえない。

 この夢はいつもここで終わってしまう。起き上がった私はカルキ臭い水道水で喉を潤し、悪魔に取り付かれたように渋谷へと吸い寄せられていく。

 そして深夜過ぎに戻って来る。少女はいつも赤く充血した目をしたまま私を待っている。後ろめたい気持ちを隠せず、つい伏し目がちになる、小さな私。嬉しそうに、嬉しそうに微笑み、安堵の表情を浮かべる雪の少女。かける言葉もない私は、まるで白い雪をけがす泥のようだった。

 

 雪乃は口数が少ない。

 とても色が白い。

 そして日ごとに病的に痩せていく。

 黒目がちの大きな瞳はいつも悲しげにしばたかれている。

 いつも何かに怯えたように、不安でたまらないかのように、うっすらと涙をためている。だが泣かない。

 ひとりで感情を持てあまし、必死に押し殺している。

 

 私を殺したいのだろうか。

 雪乃、私を殺してはくれないか。

 あなたはあの頃の私に生きうつしだ。

 そしてその表情は日々変化し続ける。

 現在の私に近付きつつある。

 

    雪乃、それ以上私に近付いてはいけない。

 あなたは今ならやり直せる。まだ間に合うだろう。

 しかし私は…。

 

 私はもう後戻り出来ない。次第に量を増やさなければ満足感を得られなくなる麻薬中毒者が、そんな自分を確立させる為に自滅していこうとする心境に似ている。私もたったひとりで自滅していこうと思う。さびしくてたまらず、不安でたまらない。それでも。

 誰かが親切ごかしに救いの手を差し延べようとするかも知れない。しかしそんな人の手など、きっと私は振り払ってみせる。喜んで手を取るならば、それはともに沈もうとする者に対してだけだ。私は泥沼からの救出行為を決して美しいと思わない。命を削減しても愛し抜こうと誓った相手であれば、同じ気持ちになる事を望む筈だ。

 

 雪乃、あなたは何をしようとしているのだ。

 雪乃、あなたは私の病をその口に受けようとしてくれているのか。

 

 もしそれがあなたの真実の望みであれば、私はあなたに対して初めて微笑みかけてあげられるだろう。一緒においでと囁いてあげられるだろう。

 それであなたがほんのわずかでも、ほんの一瞬でも幸せな気持ちになれるのならば喜んでそうしよう。共にうたかたの夢に酔いしれよう。そしてそうする事によって、私の中に依存し続ける巨大な氷の固まりが溶け去るのならば。

 

 雪乃は無言で私を迎え入れてくれる。

 何の私欲も持たず、何を言うでもなく、捨身の姿勢で両手を広げている。

 無論私はそれを当たり前などと思っていない。しかしなす術はなく、途方に暮れているしかない事にいらだち、一層途方に暮れるしかない。

 

 今夜、雪乃の肩はいつもより一層細く見える。狭い部屋の中、私と雪乃は無言のまま向かい合っている。

 窓の外にしんしんと降り続ける雪。

 エルフの息吹。

 麗しの、白。

 雪乃、とてもきれいだよ。まるで宇宙船の中から天国を眺めている気持ちだ。もうすぐ私たちはあのパラダイスに昇りつめるんだ。さあ、こちらへおいで。そしてこの銀世界を一緒に泳いでみようよ。

 そう言おうとして唇を開きかけた時、雪乃は何故か慌てて私を制止した。そしてはっと息を飲むような表情に変わり、恥ずかしそうに身をすくめたのだった。

 

 可哀想に、雪乃。

 あなたは私に触れる事ができないんだね。

 あなたは私に愛されていない事を知っているんだね。

 私は目の前にいる少女をひどく苦しめている事に、自分自身が誰よりもひどく苦しむ。傷つけられるより傷つける方が余程後に残るだろう。こんなにもいたたまれないなんて。

 だけどもう抱いてあげられない。口づけてもあげられない。交わす会話はない。私たちの間にはもう何もない。

 あるとすれば…あるとすればそう、こんな言葉しかない。

 

 昔、あなたにとてもよく似た少女がいた。思い出すたび胸が痛い。その少女を思うたび、とても胸が痛むんだ…。

 温かな春の日。

 ひょいと迷いこんだ抜け道なき迷路。 

 類い希なる美少年が振り返る。

 幻想空間。そこに存在するのは幻想空間。

 照明を落としていた舞台の幕が一斉に開かれた。

 次々と現れるキャストは、少女を限りなく魅了する。

 例えば、少年を生み出した歪んだ人間たち。

 例えば、笑う鷹。

 例えば、黒猫。

 例えば、人を飲み込む深い海。

 そして、決して溶け去る事のない氷の宮殿。

 少女には分からなかった。それらがフィクションという事を。フィクションにしては、それらはあまりにもよく出来ていたのだから。…と言うよりも、その登場人物たちには演じているという認識がなかったのだから。

 最終場面を上演せぬまま、突然に幕は降りた。事態を把握できずうろたえる少女に何ができよう。星の国へ帰ってしまう細身のシルエット。

 戻って来て、少女の泣き叫ぶ声は届かない。

 ようやく我に返ったものの、少年と過ごしたわずかな間にすべてを失った事実は少女を打ちのめした。せめて少年を取り戻そうとするものの、彼女の前に愛しい人は二度と現れなかった。

 少年が恋しくて、朝な夕なに泣いていた少女はある日、自分が少年になってしまう事を思い付く。その日から彼女は自分の中に二人の人間を共存させ、二度とさびしがらなくなった。

 …現在、彼女は少しも退屈したりさびしい思いをしたりしていないそうだ。一切の感情を捨て、無表情に生きている。それがどんなに不幸な事であるか少しも気づかずに。

 しかし時折考えるのだ。誰かを自分と同じ目に遭わせてはならない。そのくらいの配慮の気持ちは彼女にもまだあるのだ。

 ところで、私は何故こんなにも彼女の心理状態をよく把握しているのだろうか。答えはとても簡単だ。

 その彼女とは、私自身なのだから…。

 

 耳を澄ます。

 時折、風の音が聞こえる。

 それ以外物音ひとつしない。

 私も雪乃も身動きひとつしない。

 体を動かして床がきしむ音を聞くのは嫌だった。

 このまま音の無い空間に溶けていたかった。

 また夜が明けてしまう。

 また今日という日が空に昇ろうとしている。

 こんな凍てつくような夜明けを、ああもう幾度迎えたのだろう。

 

 やがて少女はそっと体を横たえ目を閉じた。

 ああそうだね、あなたは仕事があるんだね。ゆっくりおやすみ。

 私は少しも愛しさを感じていない少女に、それでも優しく毛布をかけてやった。

 

 少女の苦痛をこらえながら玄関に向かう背中を、毛布の中からじっと見ていた。私のせいでほとんど眠っていないというのに、いつものように仕事に出かける疲れきった後ろ姿。

 雪乃、私を突き放せないのだろう。あなたもひとりではいられないのだろう。それはあなたが私を受け入れるようになるまで、ずっとひとりぼっちだった事を物語っている。たったひとりでいるさびしさ、そこに人は絶望を見る。

 分かるよ、雪乃。だけどね、このままでいけばもっとつらくなるんだよ。もっと不幸になるんだよ。二人でいる孤独ってあるんだよ。

 ごめんね、雪乃。あなたをたくさん傷付けてしまっている。

 遠ざかる雪乃の足音を聞きながら、私は再び目を閉じる。

 

 名を呼ばれたような気がした。手を引かれたような気がした。気のせいなのか…。

 ゆっくりと戻ってきた意識に目を開く。私は淡い光の中で横たわっていた。薄手のカーテンを通して入って来た夕陽によって、室内は橙々色に染められていた。

 …何だ、誤解してしまったではないか。眠っている間に死んだのかと、やっと昇天できたのかと喜んでしまったではないか。

 私は半身を起こしじっとしている。淡く優しい光に包まれたまま、瞬きも呼吸も忘れてしまっている。つっと手を伸ばし、カーテンをするすると開けてみる。カーテンが開かれるにともなってしだいに姿を現す大都会の空。そう、夕陽に焼かれた絹をまとう大空がそこにある。無表情に見つめている私。毛布に埋もれたまま何もしようとしない。

 …はらり。今落ちたのは涙だったのか。何故…。

 ああ、そうだった。子どもの頃、母に叱られて泣きながら部屋に閉じこもり、窓を開けるとこんな夕陽が見えたものだった。その美しさに見とれ、叱られた悲しさなんて消えてしまったではなかったか。薄い水色が赤みを帯び、やがてふたつの色彩が穏やかに溶け合う夕刻の空。いかなる生きとし生けるものにも勝り誇り輝くそのさまは、まさに自然の、そして神々のなせる技といえよう。

 あの時叱られたのは一体何をしでかしたからだったのだろう。遠い記憶が甘くせつない。もう誰にも叱られる事もないであろう自分が自分で気の毒になる。

 …はらり。また涙が落ちる。体温が移った毛布に吸い込まれていく涙たち。

 毛布にもぐり、胎児のように身を縮めてみる。胎児も感傷に浸る事があるのだろうか。胎児も泣く事があるのだろうか。もう一度、胎児に戻れはしないものか。

 今のまま生きていけば、いずれ五感すら失ってしまうだろう。視覚も嗅覚も機能せず、何も感じなくなる日々。きっといつか、そういう時が来るのだろう。

 あの人も今、この夕陽を眺めているのだろうか。どこかの鉄格子の窓から。

 …そろそろ雪乃が帰って来る時間だ。彼女は帰って来た時、ドアの前でしばらく立ちすくむ癖があるようだ。何故かは知らないがいつもそうだ。

 私はスタンドミラーの前に立ち、自分の姿をまじまじと見つめる。

 そして何年でも何万年でもこのままでいたい、このままこうしていたいと切望する。

 

 鏡を通して私は私と見つめ合う。

 鏡の中の私は無口になり、もう二度と心の扉を開かない事を誓う。

 そして鏡の前の私は、命の限りエイリアンを演じ続ける事を、何億年でもあの人を忘れずにいる事を誓うのだった。

 鏡の向こうにはあの日の異星人に生きうつしの私がいる。

 そしてドアの向こうには、私に生きうつしの誰かがいる。

 もう間もなくドアは開かれ、細身の影が姿を現すだろう。

 その人は私を見て微笑むだろうか、それとも目を伏せるだろうか。

 

 耳を澄ます。

 カチリとライターを鳴らす音が聞こえる。

 誰かが吐く煙草の匂い。

 ああ少しずつ薄れていく。

 閉じた両の眼から絶え間なく流れる涙。

 私の両手はもはや頬をぬぐう事すらしない。

 

 もう一度、耳を澄ます。

 

 もう

 何も 

 聞こえてはこない。

 

 

 

 

     エピローグ

 

 杉本利恵子さん、お元気ですか。

 私は今、横浜にある「バリケード」というライブハウスで働いています。

 あなたが突然姿を消してしまってから、もうニ年もの月日が流れ去りました。

 今の私はあなたがそうしていたように、すべての感情を捨て去り無表情に生きています。それがどんなに不幸な事であるか少しも気づこうとせず、ただもうひとりの自分を演じるが為にそうしています。

 

 そうそう、あなたを初めて見た渋谷のライブハウス「ロフトスペース」。あの店がクローズされた事を知っていますか。

 私はもう随分長い間渋谷には行かなかったのですが、先日その事を知り、おそらく行き場を失ったのであろうあなたを想い、ほんの少し同情しました。

 

 今頃どうしているのですか。

 私はあなたと過ごしたあの幻のような日々が、いまだにどうしても忘れられないのです。

 

 逢いに来てください。

 そしてこの冷たい壁にそっと寄り添い、揃いの黒いスリムなライターで一瞬の火を放ちながら洋煙(ようもく)に命を灯し、この薄汚れた空気の中に真っすぐ煙を吐き出してみたいのです。

 あの日、二人でそうしたように。

 そしてそのままこの悲しい音の洪水の中、静かに灰になってしまいましょう。

 

 戻って来てください。

 

 私はいつまでも、

 いつまでも

 あなたを待っています。

 

                                       雪乃